河岸ー自分日記

模型工作と読書と音楽とカトリック

四旬節に

 私は洗礼から一年を経たカトリック信徒である。2017年に地元のカトリック教会の門を叩き、その後所属教会となるその教会の主任司祭から信仰に関する勉強というか講座を、マンツーマンで週一回から二週間に一回一年間受けた。

2018年の四旬節の聖土曜日/復活徹夜祭に洗礼を受けた。3月31日の事だった。

主任司祭から教わった教義で強調された事は「過越し」の重要性だった。

イエズス・キリストは生涯の最後に苦しみを受け、死に、復活したと福音書には書いてあるが、これは特殊な奇跡ではなく、普遍的な性格を持つ出来事であるという意味である。人は誰しも苦難に遭い、一時的に精神的に死に、そこから這い上がり復活する(ということが多い)だが、時には計り知れない苦難に遭遇する時もあるかもしれないが、イエズスの復活を拠り所に自身の復活を信じ行動する。あるいは待つ。これが重要であると教えられた。 

恥ずかしながら、まだ私は福音書使徒言行録、ローマ書までしか新約聖書は読んでおらず、要理も昨年の死者の日(11月2日)の司祭の帰天により中断されてしまい中途半端だ。

そもそも、心身共に弱く生まれ育った身の上で、拠り所として見出した基督教だが、その心身の弱さ故、共同体への参画、殊にミサへの参列がままならず心苦しいばかりである。いつか、この葛藤が報われるのか…?

 

 過越しがあるように待ちわびながら