五月の末日の〆
最近キリスト者としても、人としてもこの生き方で良いのか悩む時がある。
欲にまみれ、間違いを犯し、無気力になる…
双極性障害を持っている人間なので、人より浮き沈みが激しいのはしょうがないとしても、ここまで洗礼を受けた当初の計画通りに行かずに蹉跌を来すことがあるだろうか。
ヨルダン川に沈み「生まれ変わった」イエズスのようには人生の事業を遂行できそうにはない。
キリスト者(カトリック)として主日のミサに与る事少なく、共同体への浸透もままならない現状。
罪だけを重ねていく。
ふと目をつぶると洗礼以前の思い出が蘇る。死んでしまった恋人だった女性のこと、その時の西湘の海の光景…
暗く淀んでいる時には、明るかった日々を思い出すものだ。
「再生」を意味する洗礼を通過しても日々の連なりは変わらない。
罪深き人生は私を手放してくれないようだ。