河岸ー自分日記

模型工作と読書と音楽とカトリック

死者の月に:1-亡き神父への言葉

亡きステファノ・F・N神父さま

私はあなたの導きによって福音にたどり着きました。あなたは私の人生で最大の師です。あなたが私のイエズス・父なる神への眼差しを授けてくれました。未だ人生は苦しいけれど、過越の奇跡・神秘を待ち望む希望を与えられました。

あなたが地上におられる時にあなたに語りたかった私の受洗以前の人生を、語れずにあなたは天に帰られてしまいました。

私の言葉は虚しく地上の風になって彷徨います……

私が信仰に至ったのはあなたの導きと、福音に出会う前に失った恋人の死でした。

私は教会の門を叩く前後、自死してしまった恋人を失った喪失感に打ちひしがれ、空虚な土くれ人形のような状態になっていました。

あなたが教えてくれた要理の時間を通して過越の奇跡を知り、一塵の土くれ人形になっていた私に再度神の息吹を吹き込む機会を与えてくださいました。

ですが、あなたは私の信仰が闇から抜ける前に天に帰られてしまいました。

私はあなたが帰天した後の日々、罪に溺れ、羊飼い失った羊の如く地上をさまよいました。肉欲を貪り、怠惰を生き、陰府に下りそうな生活を送りました。

しかし、ある日ふとあなたの言葉が甦り、沼底沈んだ我が身を浮き上がらせました。

その、あなたの言葉は「生涯、求道者であれ」でした。

その事を思い出して以後、私は受洗以前のようにイエズスの教え・福音を思い返し、希望を胸に取り戻しました。

 

私は未だ苦悩の中です。しかし、私には遥か遠くに光が見えます。我が身に宿す事ができるか分からない希望の光だけれど、一歩一歩と歩を進めいつかたどり着ける日の事を希望にして生きています。

 

あなたは天におられると思います。私は浄めの時を経ても、天にたどり着けるかわかりません。永遠にあなたと邂逅できないかもしれません。

しかし、天において三位一体の父なる神とあなたはおられると思うと、希望と歓喜が胸に宿るのです。私が陰府に下ろうと、善き人たちが天に帰る事ができるかと思うと幸福に満たされます。

利他の精神に私の心がなったとは思いませんが、善き兄弟・姉妹が栄光に包まれる幸せをあなたは教えてくださいました。

 

あなたが天で諸聖人と共に、私たちの願いを取り次いでくれれば幸いです。

 

私は罪深い迷い羊だけど、天に帰ったあなたがいつまでも私の心の中で私を導いてくださる羊飼いでいてくれる事を願って止みません。

 

いつかまた逢う日まで。神ともにいまして。

 

 

 

 

九試単座戦闘機(エンジンカウル改修型)制作後記

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この飛行機キットは4月に作ったものだ。

ファインモールド製 1/72  三菱九試単座戦闘機(エンジンカウル改修型)

とても組み立てやすいキットで、最新の金型なのかバリも少なく(私的には少し淋しい)合わせ目もキッチリ合い組みがとても良かった。

塗装は当初シルバーで塗装したのだが気に食わず、油汚れマジックリンで塗装を全部剥がし組んだ状態に戻して再度明灰白色で塗装に挑んだ。

明灰白色は色のノリが良く発色も悪くなくて、二、三度重ね塗りして大部分の色塗りは終わり。残りの尾翼を赤く塗り、クレオスのスミ入れ塗料でウォッシング&スミ入れをしてコンパウンドの仕上げ目で磨き完成に至った。

九試単座戦闘機はテスト機なのであまり汚し過ぎはどうかと思ったが、結果オーライ雰囲気が出て◎と言った感じの感想だ。

コンパウンドを使ったのは元々スミ入れを完璧にしたかったからなのだが、汚れも適度に残り私にとってもエポック・メイキングな試作機になった。

五月の末日の〆

最近キリスト者としても、人としてもこの生き方で良いのか悩む時がある。

欲にまみれ、間違いを犯し、無気力になる…

双極性障害を持っている人間なので、人より浮き沈みが激しいのはしょうがないとしても、ここまで洗礼を受けた当初の計画通りに行かずに蹉跌を来すことがあるだろうか。

ヨルダン川に沈み「生まれ変わった」イエズスのようには人生の事業を遂行できそうにはない。

キリスト者カトリック)として主日のミサに与る事少なく、共同体への浸透もままならない現状。

罪だけを重ねていく。

ふと目をつぶると洗礼以前の思い出が蘇る。死んでしまった恋人だった女性のこと、その時の西湘の海の光景…

暗く淀んでいる時には、明るかった日々を思い出すものだ。

「再生」を意味する洗礼を通過しても日々の連なりは変わらない。

罪深き人生は私を手放してくれないようだ。

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秘め事

 私には隠している趣味が有って、それはグラビアモデルの冊子状になった袋とじを集めることだ。

 私には収集という悪い趣味があるのだが、この「袋とじを集める」事だけは身近な人には口外していない。

 袋とじというと男性週刊誌などについていて大抵閉じを開けるとヌードが載っているイメージだが、私の集めているものはモデルさんの容姿重視なのでヌードの掲載比率が少ない(なんとも言えない言い訳)

 そもそも私はアイドルを鑑賞する癖があるので、アイドル写真集を収集しても良いのだが、袋とじという情報量が少なく少ページでいながら冊子であるというフォーマットに惹かれてしまうのである。

それに袋とじから写真集を買ったことがあるが、写真集は袋とじの内容を薄く延ばしたという印象で、それなら内容の凝縮された袋とじを所有していたほうが良いのではないかとも思った。

現在ではかれこれ10冊くらいになったが、これからも増やしていく所存である。

ちなみにベストの袋とじは日南響子(ひなみきょうこ)の「SAI」という写真集が出た時の宣伝時に掲載された二つだと思っている。

 

 

 

文庫を集める。

遠藤周作の文庫を収集している。角川、講談社(文芸文庫含む)、新潮と文春文庫がメインの所で、新興出版社のレーベルにはあまり手を出さない様にしている。収拾がつかなくなるからだ。

集めるに当たって装丁というのは当然重要な条件になって、角川文庫だったら古い通し番号で背がオレンジ色の物を集めている。遠藤周作の場合「緑 二四五」で始まるものである。刷の時期によってスピン(しおり紐)がついているが、これを絶対条件にはしていない。スピンの付いている物に条件を絞ると、収集が困難になると判断したからである。現状通し番号と背の色しか条件は課していない。

 

現在コンプリートに達しているレーベルは講談社文芸文庫のシリーズで全9冊である。

入手困難な「堀辰雄覚書:サド伝」を収集初期に安価で手に入れたので、あとは近所の馴染みの個人で営んでる中古書店やネット書店、ネットオークションであまり手持ちを減らさずコンプリート出来た。

 

私はコレクションを構築する時あまり金を掛けるのを好としないので、前述の様にあまり金をかけず収集できるのはありがたいことである。

あとあまりすぐにコンプリートできてしまうのは好ましくないので、見つけづらく且つ安価に手に入るのが私の好みかもしれない。

遠藤周作は「沈黙」「海と毒薬」や新潮文庫の数ある作品以外はほぼもう刷られていないが、昭和50年代~平成初期まで大量に消費されたおかげで、今でも中古在庫はある。しかし、作品だったり古さによって在庫がまちまちなので、置いてある本との出会いがお茶の世界で言う「一期一会」だったりするから、たまらなくワクワクする。

探求心と収集欲でしばらく続きそうである。

いざ、作りめやも

  二十歳を過ぎて出会った物は多い。鉄道、堀辰雄遠藤周作キリスト教カトリック)そしてプラモデル(飛行機)。

 

2013年夏に公開されたジブリ映画「風立ちぬ」。物語の筋、画の美しさ、タバコを美味そうに嚥む様など、惚れ惚れする作品だった。前述の堀辰雄と飛行機プラモデルに興味を持つに至った映画だ。堀辰雄はエンドクレジットで「堀越二郎堀辰雄に敬意を込めて」と書かれているの見たので、浅薄な文学の知識から物語の背景になっているのではないかと思い、読んでみたら底根ハマってしまった。

プラモデルの方はといえばラストに近いシーンで出てくる、九試単座戦闘機を再現したくなりモデルグラフィックスの付録に付いてきたインジェクションキットを購入したのがきっかけで作るようになった。

雑誌の付録で付いてきたキットを作り始めてから6年経つが、波はあるにせよ未だにプラモデルは作り続けている。伸ばしランナーだのスミ入れだの様々な技法を覚えたが、未知数な事はまだまだ多く常に新しく楽しい。

いつまで生きるか分からないけれども、体動く限り続けていればと思う今日この頃である。

四旬節に

 私は洗礼から一年を経たカトリック信徒である。2017年に地元のカトリック教会の門を叩き、その後所属教会となるその教会の主任司祭から信仰に関する勉強というか講座を、マンツーマンで週一回から二週間に一回一年間受けた。

2018年の四旬節の聖土曜日/復活徹夜祭に洗礼を受けた。3月31日の事だった。

主任司祭から教わった教義で強調された事は「過越し」の重要性だった。

イエズス・キリストは生涯の最後に苦しみを受け、死に、復活したと福音書には書いてあるが、これは特殊な奇跡ではなく、普遍的な性格を持つ出来事であるという意味である。人は誰しも苦難に遭い、一時的に精神的に死に、そこから這い上がり復活する(ということが多い)だが、時には計り知れない苦難に遭遇する時もあるかもしれないが、イエズスの復活を拠り所に自身の復活を信じ行動する。あるいは待つ。これが重要であると教えられた。 

恥ずかしながら、まだ私は福音書使徒言行録、ローマ書までしか新約聖書は読んでおらず、要理も昨年の死者の日(11月2日)の司祭の帰天により中断されてしまい中途半端だ。

そもそも、心身共に弱く生まれ育った身の上で、拠り所として見出した基督教だが、その心身の弱さ故、共同体への参画、殊にミサへの参列がままならず心苦しいばかりである。いつか、この葛藤が報われるのか…?

 

 過越しがあるように待ちわびながら